焚き火の灰の捨て方|畑をやっていた頃は、これを捨てるという発想がなかった
焚き火台の底に残る白いものを、長いあいだごみとしか見ていなかった。
畑と板場では、これはどちらも使うもののほうだった。
焚き火の片づけで、いちばん最後に残るのが灰だ。
薪は燃え尽きて、炭は拾って、器の底に白いものだけが残る。
朝の光で見ると、これがきれいに見える日がある。
細かくて、乾いていて、指ですくうとさらさらしている。
それでも僕は長いあいだ、これをごみとしてしか見ていなかった。
畑をやっていた頃は、まったく逆だったのに。
灰は、思っているより長く熱い
まず、手を出す前の話から書く。
灰は冷めるのが遅い。
表面は白く乾いて、触れそうな顔をしているのに、下のほうにまだ赤いものが埋まっている。
灰そのものが毛布みたいに熱を抱えこむので、外から見ても分からない。
撤収の朝、前の晩の焚き火台に手をかざしてみると、たいてい暖かい。
十時間経っていてもそうだ。
だから僕は、水をかけない。
いっぺんに蒸気が上がるし、その勢いで灰が全部舞い上がる。
濡らした灰は泥みたいに固まって、乾いた灰の何倍も扱いにくくなる。
やることは待つか、蓋をするかのどちらかだ。
火消し壺に入れて蓋を閉めると、酸素が絶たれて自然に落ちる。
翌朝までそのままにしておいて、車に積むのは冷えてからにしている。
煙が自分のほうにばかり来る話を前に書いたけれど、あれは燃えている最中の話だった。
火が消えたあとの灰のほうが、扱いを間違えると面倒くさい。
畑では、これは出るものだった
草木灰、と呼んでいた。
剪定した枝や、乾いた草や、もみ殻を燃やしたあとに残るもののことだ。
買った覚えがない。
畑をやっていれば勝手に出てくるもので、出たら撒く、というだけの循環がそこにあった。
灰には、燃やしても飛んでいかないものが残っている。
窒素は燃えるときにほとんど抜けてしまうけれど、カリ分と石灰分は残る。
木が何年もかけて土から吸い上げたものが、火を通しても減らずにそこにいる。
だから灰を撒くのは、肥料をやるというより、返す、という感覚に近かった。
その木が持っていったものを、土に戻している。
使い方には決まりがあって、二つだけ覚えている。
ひとつは、撒きすぎないこと。
灰はアルカリ性なので、酸性に傾いた土を戻すのには効くけれど、入れすぎると今度は逆に振れる。
石灰を入れた場所へ重ねて撒くのもやらない。
もうひとつは、窒素の肥料と混ぜないこと。
アンモニアの形で入っている肥料と一緒にすると、アルカリに反応してアンモニアが気体で抜けていく。
せっかくやった窒素が、匂いになって空へ行く。
教わったときは理屈まで説明されなかった。
「別々に、日を分けて」とだけ言われて、そのとおりにしていた。
板場では、これは道具だった
もっと前、調理場にいた頃にも灰を使っていた。
山菜のあく抜きだ。
わらびやぜんまいを木灰にまぶして、熱い湯を注いで、そのまま冷めるまで置いておく。
灰のアルカリが繊維をやわらかくして、えぐみを引き出す。
いまは重曹を使うことのほうが多い。
僕も家では重曹だ。
ただ、灰でやると繊維が崩れにくくて、歯ごたえがちゃんと残る。
重曹は入れすぎるとぐずぐずになる。
あの頃は、灰が台所に置いてあるのが普通だった。
缶に入れて、こしてから使う。
燃やしたものによって性質が変わるので、何を燃やした灰かも一応気にしていた。
火を焚いて、そのあとに残ったものを次の料理に使う。
いま考えると、あれは相当に贅沢な段取りだったと思う。
炭が混じっているうちは、まだ灰ではない
キャンプの灰を畑に持って帰ろうとして、一度やめたことがある。
黒いものが混じっていたからだ。
炭と灰は別のものだ。
灰は燃え切ったあとに残った鉱物で、炭はまだ燃えるものが残っている。
畑に撒くつもりなら、白くなるまで燃やし切ったものを使う。
キャンプ場だと、これがなかなか難しい。
薪をくべるのをやめるのが遅いと、朝には黒いかたまりが残る。
逆算して、寝る一時間ほど前から薪を足すのをやめておくと、朝には白くなっている。
燃やし切るのをためらうのは、たいてい火を長く見ていたいからだ。
そこは正直に、片づけを楽にする日と、遅くまで見ている日を分けている。
持ち帰った灰を、どこへ出すか
灰捨て場のあるキャンプ場なら、そこへ入れて帰る。
ないところのほうが最近は多い気がする。
持ち帰った灰をどのごみとして出すかは、住んでいる市町村によって違う。
燃えるごみのところもあれば、燃えないごみのところもある。
調べずに出して合っていた、という運任せは何度かやったけれど、いまは一度だけ確認して覚えている。
畑に返すつもりがないなら、それがいちばん簡単だ。
ただ、袋に入れる前に一晩は置く。
中に赤いものが残っている灰を袋に入れて、それが何を起こすかは考えたくもない。
終わりではなく、途中だった
「灰になる」という言い方を、終わりの意味で使う。
燃え尽きて何も残らなかった、というときの言葉だ。
実際の灰は、燃えなかったものが残ったものだった。
火で無くならなかった分だけが、そこに白く積もっている。
土を握れば水の加減が分かる、という話を前に書いたことがあるけれど、あれと同じで、灰も手で触ると分かることがある。
さらさらしていれば燃え切っている。
ざらついて、指に固いものが当たるなら、まだ途中だ。
焚き火台の底を掃きながら、これは片づけではなく、次に渡すものを仕分けている作業なんだと思うようになった。
畑に返すぶんと、袋に入れるぶん。
そう思ってからのほうが、朝の十分が短く感じる。