油は落とすものだと思っていた。鉄のフライパンを一枚だめにするまでは
洗剤できれいに洗ったら、翌週には錆びていた。
板場でも畑でも運転席でも、油は汚れの反対側に置かれていた。
鉄のフライパンを、洗剤できれいに洗った。
油でぬるっとしているのが気持ち悪かったからで、こすったら見違えるほどきれいになって、少し得意な気持ちになったのを覚えている。
翌週、戸棚から出したら全体がうっすら赤くなっていた。
錆びていた。
汚れを落としたつもりで、落としてはいけないほうを落としていた。
板場では、油は落としきらないものだった
寿司屋にいた頃、洗い場は徹底していた。
まな板も包丁も布巾も、少しでも生臭さが残っていたら怒られる場所だった。
それなのに、鉄の鍋だけは扱いが別だった。
洗剤で洗うなと言われて、火にかけて水気を飛ばして、うすく油を引いてから片づける。
最初は矛盾しているように思えた。
あれだけ清潔にしろと言われている店で、油が残っている道具だけが許されている。
いまなら分かる。
鉄の表面に薄く残った油は、汚れではなく蓋だ。
鉄と空気と水気が同じ場所で出会うと錆になるので、油はその出会いを邪魔するために置かれている。
落とすべきものと、残しておくべきもの。
見た目が同じ「油っぽさ」でも、意味が正反対だった。
刃物の話を書いたときにも同じところへ行き着いたのを思い出す。
刃も、研いだあとで薄く油を塗って納める。
手入れというのは、汚れを取ることと、代わりに何かを置いてくることの両方なのだと思う。
揚げ油には寿命がある、と教わった
同じ板場で、揚げ物の油についてはまるきり逆のことを言われた。
こっちは残しておくものではなく、傷むものだった。
油は使うたびに少しずつ変わる。
熱と、食材から出る水分と、空気に触れることで質が落ちていって、粘りが出て、細かい泡が消えにくくなって、色が濃くなる。
煙が立ちはじめる温度も下がってくるので、同じ設定にしているつもりでも、揚がり方が変わってくる。
先輩は温度計より先に、油の表面の泡を見ていた。
上げたときに泡がすっと消えるか、いつまでも残るか。
数字で管理していたわけではないのに、替えどきの判断はいつも早かった。
油は減っていないのに終わっている、という状態があるのがおもしろいと思った。
量は目に見えるけれど、質は目に見えない。
見えないものの替えどきを、見える手がかりで判断する。
これは油に限った話ではない気がしている。
畑では、しまう前に油を差していた
農業をしていた頃、道具の手入れで言われたのは「使い終わりに差せ」だった。
使う前ではなく、しまう前。
刃物でも機械でも、いちばん傷むのは動かしている最中ではなくて、動かさずに置いている期間だ。
土がついたまま納屋に入れると、その土が湿気を抱えたまま金属に貼りついて、次に出したときには固まって落ちなくなっている。
シーズンが終わって半年放っておいた道具が、翌年いちばん機嫌が悪い。
使っているうちは、誰でも気にかける。
使わなくなったものにひと手間かけられるかどうかで、道具の寿命が変わる。
これはたぶん道具の話であって、道具の話だけではない。
運転席では、黒くなるのが仕事だった
長距離を走っていた頃、エンジンオイルの色をよく見ていた。
入れたばかりのものは薄い琥珀色で、しばらく走ると黒くなる。
最初は黒いのを悪いことだと思っていた。
教えてくれた人にそう言ったら、「黒くならない油のほうが心配だ」と返された。
燃えたあとの細かい汚れを抱え込んで運ぶのがその油の役目なので、黒くなるのは働いている証拠なのだと。
ここでも油は、汚れの反対側にいた。
汚れを寄せつけないために表面に残る油があり、汚れを引き受けて黒くなる油がある。
どちらも、金属をそのまま働かせるために間に入っている。
替えどきの判断も、走った距離だけでは決まらなかった。
荷を積んで坂を上がる日が続けば早くなるし、高速をまっすぐ流している月は長持ちする。
同じ距離でも、油の減り方は同じにならない。
いま、油を置いている場所
あの日錆びさせたフライパンは、錆を落として油をなじませ直して、いまも使っている。
洗い方は変えた。
熱いうちにお湯で流して、火にかけて水気を飛ばして、キッチンペーパーで薄く油をのばして終わり。
洗剤は、よほど焦がした日以外は使わなくなった。
外へ持って出る鉄の道具も同じで、帰ってきた日に一度火を通しておく。
車には小さい潤滑剤の缶をひとつ積んでいて、これは料理とはまったく関係がない。
たたむ道具の金具が渋くなったときや、雨に濡らしたまま積んで帰った日に少し差す。
油は水と仲が悪い。
その仲の悪さが、そのまま守りになっている。
塩について書いたときは、塩が水を引き出す道具だという話をした。
油はその逆で、水を近づけない道具だ。
台所にある白いのと透明なのが、水に対してまるきり反対の仕事をしているのだと気づいたとき、少しおかしくなった。
きれいにする、という言葉を僕はずっと「取り去る」の意味で使っていた。
鉄のフライパンを一枚だめにして、そこに「残す」も入るのだと知った。
何を落として、何を置いてくるか。
手入れというのは、そのふたつを毎回選び直すことなのだと思う。
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