切れない刃のほうが危ない。包丁で最初に覚えるのは、握り方より研ぎ方
キャンプ場でトマトを切ろうとして、刃が皮の上を滑る。
包丁が悪いのではなく、何ヶ月も研いでいないだけ、ということが多い。
キャンプ場の朝、トマトを切ろうとして手が止まる。
刃が皮の上を滑る。
力を入れると、今度はぐしゃりと潰れて、まな板に汁が広がる。
包丁が安物だからだと思いかけて、研いだ記憶をたどると、最後がいつだったか思い出せない。
そんな朝は、誰にでもあると思う。
最初に覚えるのは、握り方ではない
寿司屋の板場では、入った最初のうちは魚に触らせてもらえず、砥石の前に座る、という話をよく聞く。
そこで言われるのが「切れない包丁のほうが危ない」という一言だ。
意味が分かるのは、しばらく経ってからだと思う。
切れる刃は、置いた重さだけで入っていく。
手はほとんど動かさなくていい。
切れない刃は入っていかないので、こちらが力を足すことになる。
足した力は、材料が急に切れた瞬間に行き場をなくして、そのまま刃を走らせる。
走った先にあるのは、たいてい自分の指を押さえている手だ。
刃物で怪我をする場面を思い浮かべると、鋭い刃を想像してしまう。
実際に危ないのは、思ったところで止まらない刃のほうだ。
切れないと、味のほうまで変わってしまう
刺身を引くと、切れ味の差が皿の上にそのまま出る。
よく切れる刃を通したものは、角がすっと立って、表面が光る。
切れない刃で押し切ったものは、断面がわずかに潰れて、置いておくと下に水が出る。
口に入れたときの感じも違う。
これは魚だけの話ではないと思う。
朝のトマトも、切り口が潰れたぶんだけ皿に汁が出る。
食べる前から味が少し逃げている。
料理がうまくいかない日は、腕や材料のせいにしがちだ。
原因は手元の刃だったのかもしれない。
研ぐというのは、戻すことではなく減らすこと
研ぐと切れ味が戻る、という言い方をよくする。
実際にやっていることは、刃を少しずつ削って新しい面を出すことだ。
つまり研ぐたびに、包丁は小さくなっていく。
長く使い込んだ包丁は、新品より明らかに幅が細い。
同じ形で買ったはずのものが、何年ぶんか削られて痩せている。
道具が減っていくのを見るのは、悪い気分ではない。
買った日から増えていくものは記録にならないが、減っていくものは使った時間がそのまま形になる。
家で使っている包丁も、研ぐたびに少しずつ細くなる。
畑でも、刃は研ぐものだ
農業で使うのは、包丁ではなく鎌だ。
研いだ鎌で草を払うと、切れるというより落ちる。
手首を返すだけで、根元から静かに倒れていく。
切れない鎌だと、同じ草を二回三回と叩くことになって、腰から先に疲れる。
作業をする人は、二種類に分かれると思う。
一日の終わりに必ず研いでから片づける人と、切れなくなってから研ぐ人だ。
前の人のほうが、作業が早く終わりやすい。
手入れは作業の外側にあるように見える。
あれは作業の速さそのものだと思う。
外で使う刃に、万能を求めなくなった
キャンプに家の包丁を持ち出す人は多いと思う。
困るのは、外にいると刃物の出番が食材だけで終わらないことだ。
紐を切る。
段ボールを割く。
細い枝を落とす。
そのうち薪にも当ててしまって、刃が小さく欠けることもある。
食材を切るものと外仕事に使うものは、分けたほうがいい。
分けると、どちらも長持ちしやすい。
一本で全部やろうとすると、いちばん繊細な使い方に合わせて手入れしなければならなくなる。
外仕事用は、少し厚みがあって、多少ぶつけても平気なものがいい。
鞘があると車に積みっぱなしにできるので、そこだけは気にして選びたい。
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面倒だと思っていた時間が、いちばん静かだった
家に帰ったら、砥石を出して研いでおく。
水に浸けて、角度を決めて、同じ場所を何度も往復する。
手を動かしているうちに、音が変わる瞬間がある。
ざらざらしていたものが、すっと通りはじめる。
そこまで来たら、あとは仕上げの面に替えて数回だけ。
短い作業でも、翌朝のトマトの切り口は変わる。
研ぎの時間は、慣れないうちは退屈に感じるものだと思う。
けれど、あれはいちばん静かな時間だとも思う。
よく切れる刃は、音がしない。
手入れの行き届いたものほど何も言わないので、こちらから見に行かないと気づけない。