2026.09.15 泊まれる場所4,223 立ち寄りスポット46,522 営業中を確認したキャンプ場1,005 note を読む

切れない刃のほうが危ない。板場で最初に教わったのは、握り方ではなく研ぎ方だった

キャンプ場でトマトを切ろうとして、刃が皮の上を滑った。
包丁が悪いのではなく、僕が何ヶ月も研いでいなかっただけだった。

キャンプ場の朝、トマトを切ろうとして手が止まった。

刃が皮の上を滑る。
力を入れると、今度はぐしゃりと潰れて、まな板に汁が広がった。
包丁が安物だからだと思いかけて、すぐに違うと分かった。
この包丁を最後に研いだのがいつだったか、思い出せなかった。

最初に教わったのは、握り方ではなかった

寿司屋の板場に入った最初の何日か、僕は魚に触らせてもらえなかった。
かわりに砥石の前に座っていた。

そのとき言われたのが「切れない包丁のほうが危ない」という一言だった。
意味が分かったのは、しばらく経ってからだと思う。

切れる刃は、置いた重さだけで入っていく。
手はほとんど動かさなくていい。
切れない刃は入っていかないので、こちらが力を足すことになる。
足した力は、材料が急に切れた瞬間に行き場をなくして、そのまま刃を走らせる。
走った先にあるのは、たいてい自分の指を押さえている手だ。

刃物で怪我をする場面を思い浮かべると、鋭い刃を想像してしまう。
実際に危ないのは、思ったところで止まらない刃のほうだった。

切れないと、味のほうまで変わってしまう

板場にいた頃、刺身を引くと切れ味の差が皿の上にそのまま出た。

よく切れる刃を通したものは、角がすっと立って、表面が光る。
切れない刃で押し切ったものは、断面がわずかに潰れて、置いておくと下に水が出る。
口に入れたときの感じも違う。

これは魚だけの話ではないと思う。
あの朝のトマトも、切り口が潰れたぶんだけ皿に汁が出ていた。
食べる前から味が少し逃げている。

料理がうまくいかない日に、腕や材料のせいにしていたことが何度かある。
いま思うと、原因は手元の刃だったのかもしれない。

研ぐというのは、戻すことではなく減らすこと

研ぐと切れ味が戻る、という言い方をよくする。
実際にやっていることは、刃を少しずつ削って新しい面を出すことだ。

つまり研ぐたびに、包丁は小さくなっていく。

板場にいた先輩の包丁は、僕のものより明らかに幅が細かった。
同じ形で買ったはずのものが、何年ぶんか削られて痩せている。
新しい包丁を持っている自分が、なんとなく恥ずかしかったのを覚えている。

道具が減っていくのを見るのは、悪い気分ではない。
買った日から増えていくものは記録にならないが、減っていくものは使った時間がそのまま形になる。

いま家で使っている包丁も、少しずつ細くなってきた。
研ぐたびに、それが分かる。

畑でも、僕は刃を研いでいた

農業をしていた頃に持っていたのは、包丁ではなく鎌だった。

研いだ鎌で草を払うと、切れるというより落ちる。
手首を返すだけで、根元から静かに倒れていく。
切れない鎌だと、同じ草を二回三回と叩くことになって、腰から先に疲れる。

周りを見ていると、二種類の人がいた。
一日の終わりに必ず研いでから片づける人と、切れなくなってから研ぐ人だ。
前の人のほうが、いつも早く畑から上がっていた。

手入れは作業の外側にあるように見える。
あれは作業の速さそのものだったのだと、あとになって思った。

外で使う刃に、万能を求めなくなった

キャンプに家の包丁を持ち出していた時期がある。

困るのは、外にいると刃物の出番が食材だけで終わらないことだ。
紐を切る。
段ボールを割く。
細い枝を落とす。
そのうち薪にも当ててしまって、刃が小さく欠けた。

それ以来、食材を切るものと外仕事に使うものを分けている。
分けたら、どちらも長持ちするようになった。
一本で全部やろうとすると、いちばん繊細な使い方に合わせて手入れしなければならなくなる。

外仕事用は、少し厚みがあって、多少ぶつけても平気なものがいい。
鞘があると車に積みっぱなしにできるので、そこだけは気にして選んでいる。

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面倒だと思っていた時間が、いちばん静かだった

家に帰って、久しぶりに砥石を出した。

水に浸けて、角度を決めて、同じ場所を何度も往復する。
手を動かしているうちに、音が変わる瞬間がある。
ざらざらしていたものが、すっと通りはじめる。
そこまで来たら、あとは仕上げの面に替えて数回だけ。

十五分ほどの作業で、翌朝のトマトの切り口が変わった。

板場にいた頃は、研ぎの時間が退屈で仕方なかった。
いまは、あれがいちばん静かな時間だったのではないかと思う。
よく切れる刃は、音がしない。
手入れの行き届いたものほど何も言わないので、こちらから見に行かないと気づけない。

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