板場では、いちばん最初に量りを取り上げられた
量らないことが誠実な場所と、量ることが誠実な場所があった。
いま僕が量っているのは、まる子の体重くらいだ。
台所の引き出しの奥に、ほとんど使っていないキッチンスケールがある。
買ったのは十年近く前で、使った回数は両手で足りる。
それなのに捨てられずにいるのは、僕がいちばん長くいた場所で、いちばん最初に取り上げられたのが量りだったからだと思う。
重さを量るという行為について、僕はどうも一貫していない。
板場では、量りを取り上げられるところから始まった
寿司屋に入ってしばらく、僕は量りに触らせてもらえなかった。
触らせてもらえなかったというより、そこに量りがなかった。
シャリの大きさも、合わせ酢の割合も、口で言われた覚えがほとんどない。
見て、やって、違うと言われる。
それだけだった。
数字で教えてもらったほうが早いのに、と当時は思っていた。
いま思うと、数字にすると数字のほうを見てしまうからだったのだろう。
米は日によって水を吸う量が変わるし、気温でも変わる。
同じグラムでも同じものにならない日がある。
それを最初に数字で覚えると、目の前の米ではなく紙のほうを信じるようになる。
それでも、量らないと分からないものはあった
ただ、まったく量らなかったわけではない。
あるとき先輩が、握ったものを黙って量りに乗せたことがあった。
十貫並べて、全部乗せて、数字を読み上げて、それで終わり。
教える言葉はひとつもなかったけれど、僕は自分の手がどれだけ揃っていないかを、そこで初めて知った。
あれは正解を教えるための量りではなかったと思う。
自分がどれくらいばらついているかを見せるための量りだった。
それからしばらく、家で練習するときだけ乗せるようになった。
店では乗せない。
量って覚えて、量らずに出す。
引き出しのスケールを捨てられないのは、たぶんこの順番を覚えているからだ。
畑では、まるきり逆のことを言われた
農業をやっていた頃は、感覚を捨てろと言われた。
出荷は規格で決まる。
この大きさからこの大きさまでを何本、この重さの箱に詰める。
手で持って「まあこんなもんだろう」は通らない。
通らないというより、それをやると受け取る側の仕事が増える。
作物を作る技術と、出荷する技術は別物だった。
美味しいものを作れる人が、必ずしも箱詰めが速いわけではない。
僕はどちらもたいして上手くならなかったけれど、量ることが人への配慮になり得るというのは、あそこで初めて分かった。
板場では量らないことが誠実で、畑では量ることが誠実だった。
同じ道具なのに、求められていることが正反対だった。
車の重さは、感覚では決められない
長い距離を走る仕事をしていた頃、重さは法律の話だった。
車検証に数字が書いてある。
積んでいいのはここまで、と決まっている。
見た目で判断する余地はないし、判断してはいけない。
超えたら止まらないし、曲がらないからだ。
いまも車に荷物を積むときだけは、あの頃の感覚が出てくる。
後ろが沈んでいないか、ハンドルが軽くなっていないか。
数字で確かめているわけではないのに、体のほうが先に「重い」と言う。
不思議なもので、いちばん厳密に数字で管理されていた場所の記憶が、いちばん感覚として残っている。
いま量っているのは、まる子の体重くらいだ
うちのまる子は十二歳になった。
ロングコートチワワで、もともと小さい。
小さいぶん、少し痩せただけで見た目には出ない。
だから月に一度、僕が抱いて体重計に乗って、僕だけの数字を引く。
やり始めたのは去年からで、きっかけは特にない。
ただ、抱いたときに軽くなった気がした日があって、気のせいだと思いたかったから量った。
気のせいではなかった。
いまは百グラム単位で記録が並んでいる。
見ていると、夏に少し落ちて秋に戻る、という毎年の癖があることが分かってきた。
こうなると、落ちた日に慌てなくて済む。
慌てるべき落ち方かどうかを、過去の自分が教えてくれる。
抱いた感覚だけでは、これは絶対に分からなかった。
量るのは、手を疑うためではない
板場で量りを遠ざけられた理由と、いままる子を量っている理由は、矛盾していないと思っている。
あのとき数字を持たされなかったのは、目の前のものを見る力を先に作るためだった。
いま数字を取っているのは、目の前を見ているだけでは気づけない変化があるからだ。
手のほうが速い場面と、数字のほうが速い場面がある。
前者は毎日繰り返すこと、後者はゆっくり進むこと。
そう分けると、自分の中の矛盾がだいぶ収まった。
引き出しのスケールは、たぶんこれからも大して使わない。
それでも、あれを見るたびに、自分の手がどれくらいばらついているのかを一度だけ見せてもらった日のことを思い出す。
道具として使っていないだけで、役には立っている。
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