汗をかいてはいけない仕事から、かいても誰も困らない場所へ来た
同じ汗なのに、仕事によって扱いがまるで違った。
四つの仕事を、汗のかき方だけで思い出してみる。
朝から、もう暑い。
窓を開けて外を見ていたら、首筋を汗が伝った。
拭きながら、そういえば汗を拭くという動作を何年もしなかった時期があったな、と思った。
仕事が変わるたびに、汗との付き合い方が変わってきた気がする。
落としてはいけない汗
寿司を握っていた頃、板場でいちばん気を遣ったのが汗だった。
暑いのに、汗をかいてはいけない。
正確には、かいてもいいけれど落としてはいけない。
夏場の店の中は、外から見るよりずっと暑い。
それでも額を腕で拭う動作は人前ではできないので、鉢巻きを巻いて、下りてくる前に止めていた。
不思議なもので、あの頃は暑さの汗より緊張の汗のほうが多かった。
手のひらに出る汗は気温と関係がなくて、冬でも出る。
ネタが乾く、と怒られたことがあるけれど、本当に乾いていたのは自分の口のほうだったと思う。
流れるままでよかった汗
畑に出るようになって、汗の扱いが真逆になった。
誰も見ていないし、拭いてもすぐまた出る。
拭かないほうが楽だと気づいてからは、そのままにしていた。
そのかわり、飲むものと塩に気を遣うようになった。
水だけを飲んでいると、昼過ぎに頭が重くなる日がある。
塩をひとつまみ舐めると、それが引く。
理屈より先に体で覚えたので、いまでも夏に外で長く動く日はポケットに何か入れている。
もうひとつ覚えたのは、朝のうちに済ませることだ。
九時を過ぎると汗の量が変わる。
畑仕事が早いのは勤勉だからではなくて、遅い時間は体がもたないからだった。
かかないつもりで、乾いていく汗
長距離を走っていた頃は、汗をかかない仕事だと思っていた。
座っているし、エアコンが効いている。
ところが荷降ろしになると、十五分で全身が濡れる。
そのあと冷えた車内に戻るのが、いちばんこたえた。
濡れたシャツのまま座ると、着く頃には芯が冷えている。
替えのシャツを積むようになったのは、身だしなみの話ではなくて体を壊さないためだった。
あの仕事で覚えたのは、汗をかいた瞬間より、かいたあと放っておいた時間のほうが体に効く、ということだ。
疲れの正体が汗ではなく、そのあとの冷えだったと分かるまでに何年かかかった。
いまの汗
いまは机に向かっている時間が長いので、日中はほとんど汗をかかない。
そのかわり、外で火を焚いている時間に汗をかく。
火の前は暑い。
夏にわざわざ火を焚くのは、はたから見ればおかしな話だと思う。
それでも、あの汗はいくらかいても誰も困らない。
拭いてもいいし、拭かなくてもいい。
板場で汗を止めていた頃の自分に、いつか汗をかくのが楽しみになる日が来ると言っても、たぶん信じなかった。
同じ汗なのに、かく場所が変わっただけでこんなに違う。
体が変わったのではなくて、汗をかいてはいけない場所から離れただけなのだと思う。
夏に外で長くいる日の三つ
畑で覚えた塩と、トラックで覚えた冷えと、板場で覚えた拭くこと。
結局その三つを、いまも小さく持ち歩いている。
塩をとるもの、首を冷やすもの、体を拭くもの。
どれもポケットに入る大きさで済むのが、ありがたい。
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