2026.09.15 泊まれる場所4,223 立ち寄りスポット46,522 営業中を確認したキャンプ場1,005 note を読む

焚き火のあとの上着を、その日のうちに洗えない

匂いが残っているうちは、まだ昨日が終わっていない気がする。
手放せない匂いのことを、少し書いておきたい。

焚き火をした日の翌朝、上着を洗濯機の前まで持っていって、そこで手が止まる。
煙の匂いがまだ袖に残っている。
洗えばすぐ消えるのは分かっていて、分かっているから洗えない。
もう一日だけ、と思って椅子の背にかけ直す。

写真も残しているし、日誌も書いている。
それでも、いちばん強くあの日を連れ戻してくるのは匂いのほうだ。

魚の匂いは、洗っても抜けなかった

寿司屋にいた頃、手から魚の匂いが消えることはなかった。
石鹸で洗っても、レモンをこすっても、翌朝には戻っている。
電車に乗るときは、少し人から離れて立っていた。

当時はそれが嫌でしかたなかった。
いまは、市場の脇を通ってあの匂いに当たると、足が止まる。
匂いだけで、店の音まで一緒に戻ってくる。
包丁がまな板に当たる音とか、寸胴の湯気とか、朝いちばんに開ける裏口の重さとか。

嫌だったはずのものが、いちばん確かな目印になっている。
そういう入れ替わりが、匂いにはよく起きる気がする。

土の匂いで、その日の畑が分かった

畑をやっていた頃、朝いちばんに畑へ入ると匂いで状態が分かった。
雨のあとは重たくて甘い匂いがする。
何日も晴れが続くと、匂いが薄くなって埃っぽくなる。

誰かに教わったわけではなくて、毎日入っていると勝手に覚える。
土を握って確かめるより先に、鼻のほうが答えを出していた。

いまでも夏の夕立のあと、アスファルトから立つ匂いに畑のそれが混ざっていることがある。
そういう日は、なんとなく手を洗いたくなる。

夜の道路には、土地ごとの匂いがある

長い距離を走っていた頃、夜のサービスエリアで窓を開けるのが好きだった。
軽油の匂いと、厨房から流れてくる出汁の匂いと、その土地の空気が混ざる。
山の中と海沿いでは、はっきり違う。
北へ向かうほど、夜の空気が固くなっていくのが分かる。

眠くなったら外に出て、深呼吸をひとつしていた。
コーヒーより、そっちのほうが目が覚めた。

いまでも夜中に高速を走ると、どこを走っているか目をつぶっても半分くらいは当たると思う。
たぶん当たらないのだけれど、当たる気がしているうちは楽しい。

選んだ匂いには、記憶が宿らない

家では香を焚くようになった。
夜、片付けが終わって机の前に座ったら一本立てる。
煙が細く上がっているあいだは、もう仕事をしないと決めている。

面白いのは、こうして自分で選んだ匂いには、あまり記憶がくっつかないことだ。
気持ちよくはなる。
でも五年後にこの香りを嗅いで、今日の夜が戻ってくる気はしない。

戻ってくるのは、いつも選ばずについてきた匂いのほうだ。
魚も、土も、軽油も、自分で選んだものではなかった。
焚き火の煙もそうで、香りを楽しむために焚いているわけではないのに、いちばんよく覚えている。

だとすると、匂いを選ぶというのは記憶を作る行為ではなくて、いまの自分を整える行為なのかもしれない。
覚えておくためではなく、今日をちゃんと終わらせるために焚いている。
それはそれで、悪くない使い方だと思う。

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結局あの上着は、三日目に洗った。
洗ったら、当たり前だけれど何も残らなかった。
それでいいのだと思う。
また焚けば、またつく。

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