便利になるほど、豊かさが見えにくくなる気がする
スマホひとつでたいていのことが片づく時代に、僕はときどき、便利さと豊かさは別物なんじゃないかと立ち止まる。
答えは出ていないけれど、その考えごとを書いておきたい。
朝起きて、まだ布団の中にいるうちに、今日の天気も、届いた連絡も、世界の出来事も、手のひらの画面で全部わかってしまう。
便利だ。
とても便利で、もうこれなしの生活は考えられない。
それなのに、便利になるほど、豊かになった実感のほうは薄れていく気がして、ときどき手が止まる。
手間がなくなると、記憶も薄くなる
ボタンひとつでお湯が沸く。
蛇口をひねれば水が出る。
ありがたいことなのに、その一杯の水を、僕はもう覚えていない。
くるま旅で、湧き水を汲みに少し歩いた日のことは、なぜか鮮明に覚えている。
冷たかったこと、手がしびれたこと、そのあとに飲んだ一口のうまさ。
手間をかけた分だけ、記憶が濃くなる。
便利さは、その手間ごと、そっと持っていってしまうのかもしれない。
選ばなくていい、ということ
おすすめは向こうから流れてくる。
次に見るものも、次に買うものも、賢いしくみが先回りして並べてくれる。
楽なのは間違いない。
でも、自分で棚の前をうろうろして、迷って、はずれを引いて、という時間が減っていく。
そのはずれの中に、思いがけず好きになったものが混じっていた気もするのだ。
便利さを、少しだけ手元に残す
だから僕は、便利をぜんぶ手放そうとは思わない。
そんなのは不便自慢になるだけだし、続かない。
ただ、一日のうちのどこかに、わざと手間のかかることをひとつだけ残しておく。
豆を挽く。
歩いて買いに行く。
それくらいの小さな不便が、僕にとっては豊かさの手ざわりを思い出すスイッチになっている。